ご縁をいただき、ありがとうございます。当店「へんげ茶師マルマサ」のストーリーを、お伝えします。
―「へんげ茶師」として。
茶師は、お茶のプロフェッショナルです。
日本茶は多くの場合、お客様へ届くまでの間に複数の業者らを経ます。茶が畑で収穫された後、茶工場で製造ラインに立つ職人や、茶問屋で商品づくりをするブレンダー…それぞれが「茶師」を称して、専門分野に特化してお茶の流通に関わってるのです。
一方でへんげ茶師マルマサは、いわばお茶の“水源から海原まで”を理解してはじめて、1人のお茶のプロ=「茶師」であると考えています。茶樹の栽培から、人を癒すまで…お茶に関わるあらゆる感覚や技術をそなえて、基準を持っていること。それが当店の目指す茶師の姿です。
茶畑、茶工場、そしてお客様の前へ…と場所を移しても、常に最良の仕事ができるように。どのプロフェッショナルにも“変化”して、最後にはお客様に喜んでいただけるように―。そう願って、「へんげ茶師」と名乗ることを決めました。
―どうしても自分のお茶をつくりたくて、「マルマサ」を復刻。
当店が掲げる「マルマサ」には、現在では語れる者の限られた、深い歴史があります。
静岡県牧之原市坂部(坂口)の茶農家・間渕家は、記録の残る限り文政9(1826)年より、現在の土地に畑を持ち農業を営んでいました。茶業についての最も古い言及は明治期のもので、当時の茶師・間渕市五郎の日記や書類から、その有様が見てとれます。市五郎は地元の茶業組合の総代も務め、地域の茶産業の中心となった人物でした。
そして市五郎の次代・政雄が茶業を継いだとき、掲げた屋号が“〇”に“政”―「マルマサ」です。
政雄は茶時期になると、布団で寝ることも惜しみ、縁側で横になって休んでは仕事をしたといいます。亡くなったのち、その戒名に“茶”の文字がつくほど、お茶を愛した茶師でした。大正初期に政雄が新しく建てた茶工場は現在も建屋が残され、「茶部屋」と呼ばれています。
惜しくも、その後マルマサとしての製茶・販売業は廃業し、製茶機械もなくなりました。
一度屋号を失ったものの、政雄の背を見て育ったその長男・途シ男は、栽培に特化し、代々の茶畑を守り続けます。昭和後半から平成にかけて、近隣の農家とともに山あいの畑の開墾事業に取り組み、自園の改植にも積極的でした。このときの茶樹の品種導入が、現在のお茶づくりに活きています。
そして令和3(2021)年、市五郎から数えて5代目として生まれた当代・明日香が、「へんげ茶師マルマサ」として坂部の地でお茶の生産を始めました。茶工場を借りて、畑仕事と製造、そして商品企画・小売販売まで手がけています。
当代は、伝統技術・手揉み製茶の茶師としても、また日本茶インストラクターとしても活動し、自らの鍛錬を忘れぬよう努めています。マルマサの創業者・政雄を知る人に“お前は曽子爺の生まれ変わりだ”と言われたことを、ひそかに励みとしています。
お茶が好きで、どうしても自分がつくったお茶で“我ここにあり”と言いたい。その思いが復刻させた屋号が、「マルマサ」です。
家業の茶農業を手伝って育ち、県外の茶業を経験した後にUターン。一時、自家の茶に向き合えない日々を経つつも、地元茶工場の仕事をきっかけに『やっぱりお茶が好きだ』と気づき、自分の茶づくりを志す。2021年に「へんげ茶師マルマサ」として製茶・販売をスタート。
静岡県茶手揉保存会員・教師補。日本茶インストラクター22期生。
茶産業の地・静岡で、他ならぬお茶に携わって生きられることに、感謝しています。いつでも飲む人の“そばにいる”お茶でいられますように。